⑥ 粟田五山


江戸期に有力な窯元は「粟田五山」と称されます。

その一つの「錦光山」は幕府御用を務め、当ギャラリーの敷地からもその窯跡が出土しており、安田家(解説②参照)もこの流れを汲みます。

錦光山は明治以後、粟田焼の復興に尽力し、「京薩摩」で名を馳せたほか、御子孫がその事績を著されています。